第85回龍谷大学大会シンポジウム「今、日本語で哲学するとはどういうことか」

2026.03.20

概要

提題:上原麻有子(京都大学)、フォンガロ・エンリコ(南山大学)、笠木雅史(名古屋大学)
司会:太田裕信(愛媛大学)、陶久明日香(学習院大学)

会場:東黌101講義室(395人)
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趣意文

現在、日本語を母国語とする研究者にとって、国際誌に投稿したり、国内外の学会で日本語以外の言語で研究発表したりする機会は、以前と比べて圧倒的に増えている。本学会のメーリングリストで通知されるシンポジウム等でも、英語で実施されるプログラムの数が年々多くなっているということはこの傾向の現われであろう。

日本語母語話者が外国語のスキルを身に着け、自身の研究結果を発信することにはそれなりのメリットがある。たとえハイレベルな研究がなされているとしても、日本語だけでの発信だと、その成果は他言語の研究者にはまったく理解されず、またその存在すら認知されない。他方、外国語で発信するとなると(多くの研究者が理解可能な英語であればなおさら)より広い読者層に向けて自身の研究成果を公表でき、そこからさまざまなフィードバックを得ることが可能である。

また今では海外の学会にて口頭発表せずともReserchGateやAcademia.eduなどのインターネット上のサイトに外国語の論文や草稿を掲載すれば、自分と同じような関心をもつ海外の研究者との交流や共同研究へと発展する可能性がある。さらにAIの発達も目覚ましく、外国語の文章を作成する際の補助としてAIの添削機能などを活用すれば、外国語の文章作成に以前ほどは多くの時間と労力をかける必要もなくなってきている。そして外国語を日本語に翻訳することに関してもAIの発達は日進月歩であり、精確な訳と言えないところもまだあるが、その翻訳によって未邦訳の短い二次文献の論稿の内容を短時間で概観することなども、行おうと思えば可能にはなっている。このように外国語の文章のアウトプットおよび外国語文献の内容のインプットに関しても状況は日々急速に変わってきているため、われわれが外国語で研究成果を発表する傾向は今後さらに強まる可能性が高い。

 だがこのような状況だからこそ、「日本語で哲学する」ことの意味を今一度考える必要があるだろう。日本語で書き、日本語で議論するとは一体どういう営みなのか。本シンポジウムではこうした問題を、二つの観点から考えてみたい。一つは「翻訳」という観点である。狭義の「哲学」とはいわゆる西洋哲学のことであり、日本は明治時代にこの「哲学」を輸入したという歴史がある。その際、「日本語で哲学する」ためには、まず「哲学」の内容を日本語に「翻訳」するということが、言い換えれば、西洋語で書かれた思想内容を解釈して言語体系が異なる日本語の意味地平に落とし込むことが必要であった。哲学の普遍性は、哲学的思考の自然言語への依存性を排した「普遍言語」の構想に至ることがあるが、日本語の哲学は翻訳行為を通じて展開してきた面が強い。日本語という媒体を抜きに思考することは果たして可能なのか。「普遍性」と日本の哲学はどう向き合うのか。こうした問題を考えるためには、日本の哲学における「翻訳」の位置付けを再検討する必要があるだろう。

そのため第一提題では、西田幾多郎をはじめとする日本哲学の研究者であり、また翻訳論の研究にも取り組まれてきた上原麻有子氏に、日本語という条件を背負って「日本語で哲学する」ことを試みた日本の哲学者の思想を、翻訳論という観点から再検討していただく。氏によると、「翻訳」とはつねに哲学に伴うものであり、たんにある言語を他の言語に訳すという知的実践にとどまらない。むしろそれは、解釈者における哲学的思考と言語表現の創造的原理として機能するものである。本提題においては、西洋哲学を受容しつつ独自の「哲学」を展開した和辻哲郎や九鬼周造などのテキストのうちに看取できる、創造的原理としての「翻訳」の機能や、「日本語で哲学する」ことの意義について論じていただく予定である。

なお現在では、日本哲学は西洋哲学の受容を基盤として展開してきたものとして、海外の研究者によっても受容され、さまざまな形で「翻訳」されつつある。そこで第二提題では、イタリア出身の日本哲学研究者であるフォンガロ・エンリコ氏に、日本語が母語ではない研究者の視点から日本哲学について再考していただく。氏においても「翻訳」は哲学の存在そのものに本質的なものであり、思考の営みに不可欠な変容の実践であると捉えられている。本提題では、西洋語から翻訳された日本語を読むという作業だけでなく、そうした訳語を含む日本語のテキストをさらにイタリア語へと「逆翻訳」する際に直面する問題をも考察していただく。さらには、先に触れたAIによる翻訳の問題や、ヨーロッパの思想が他の思想に対して及ぼしている「暗黙の支配」についても論じていただく予定である。

 そしてこの特定の文化圏による「暗黙の支配」という問題は、今回のシンポジウムが重視するもう一つの観点である「言語的不正義」という問題にも通じる。サイエンス同様に哲学の分野においても、最近ではとりわけ英文ジャーナルを哲学研究の主たる舞台とする研究者が増えており、ドイツ哲学やフランス哲学の研究発表の場でも、もはや公用語がドイツ語やフランス語ではなく英語であることが多い。ゆえに母語で哲学的に議論し書くという機会は日本のみならず、世界の各地で減少しつつあると言えるだろう。ここには「英語」中心主義と認識的不正義のような問題が含まれている可能性がある。

そこで第三提題では、分析哲学およびアカデミックライティングに造形の深い笠木雅史氏に、こうした「言語的不正義」をめぐる諸問題を英語圏での研究成果を踏まえながら検討していただく。氏によれば、グローバルな共通言語として英語が使用されるようになったのは、科学・経済・政治の各分野において英米による支配力が強まった結果である。そして、英語が支配的言語になったがゆえに生じた「言語的不正義」の研究は、現在、実証的研究と規範的研究の両面から進められている。本提題では、こうした研究成果を基に、哲学の学術言語としての日本語の特徴や、「言語的不正義」を改善するために必要なことなどについて提言していただく予定である。

これら三つの提題を基に、本シンポジウムでは、日本語で書き、日本語で議論するとはいかなる営みなのかを再確認し、その強みは何であるのかを考える機会としたい。また同時に、これらの問題を考えることは、本学会を含めた日本国内の学会の意義を自ら問うことにもつながるだろう。本シンポジウムは最終的にはこうした問いの遂行の場になることを目指している。

予稿1 哲学と日本語の相互創造性(上原麻有子)

今回のシンポジウムのテーマ「今、日本語で哲学するとはどういうことか」は、日本哲学を専攻する発表者にとって、この学に対する根本的問いへと導く興味深いものである。まず次のような認識を確認することから始めよう。

一般的に日本の研究者は、「哲学」と言えば、それは「西洋哲学」のことだと理解しているのではないか。思索の対象は西洋哲学であり、その方法も西洋哲学の理論を用いる。つまり思索の基盤には常に西洋哲学が、言い換えれば常に西洋の言語で執筆された原著があり、その日本語への翻訳を通して研究する。西洋哲学はゆるぎない地位を獲得しており、日本語は思考のための補助的言語である。しかし研究者は、そのことに気づいていないだろう。発表者は「哲学」とは「西洋哲学」だという認識の背景にある言語と思考の関係を、簡単ではあるもののこう分析しているのだが、いかがであろうか。

ところでこの哲学的思考と日本語の関係は、より積極的な意味での「翻訳」という視点から見ることができる。翻訳とはテクストや用語を他の言語に忠実に訳そうと努力する知的・言語的実践の意味に止まらない。発表者は、むしろそれを常に哲学に伴う行為だと捉え、フランスの翻訳哲学の研究者らによる「他の諸言語と無関係な哲学は存在しない」、そして「哲学のテクストは「必ず外なるものの横断」を経る、というのも「哲学は厳密な単一言語使用を維持することは決してない」からだ。(Traduire les philosophes, sous la direction de Jaques Moutaux et Olivier Bloch, Publiction de la Sorbonne, 2000, 18.)という主張を支持したい。これは言い換えれば、いかなる哲学も翻訳によらないものはないということである。

ある哲学の思索の役割は、言語的転換としての翻訳を通して、異言語の研究者へと受け継がれることになる。要するに、翻訳は哲学的思考と言語表現の創造的原理であると言えるのだ。原著に忠実であろうとする翻訳は、一つのあるべき知的・言語的実践であるが、一方で翻訳は、西田幾多郎が説いたように、原著の哲学に生命を発揮させ、到達言語での言表と思想を相互創造的に開かせるような原理でもあるのだ。

そして本発表では、以上示したような哲学と翻訳の関係性を「日本哲学」の中に探ってみたい。特に、1920年代末から哲学する日本語の可能性に逸早く着目した和辻哲郎が、ハイデガーのDaseinの存在了解の規定を参考とし、またこれを批判的に捉え、日本語の「ある」の分析により日本的な人間存在の自己了解を唱えた研究(「日本語と哲学の問題」、1935年)を取り上げ、再評価する。その関連で、九鬼周造による日本の伝統文化の一つの現象である「いき」の存在論および芸術論(『「いき」の構造』、1930年)に関心を向け、九鬼の日本語の言説の作り方について検討する。

日本哲学は、西洋哲学を摂取し、その基礎の上に形成され発展してきた。今、日本哲学は外国の研究者によって受容され、盛んに翻訳されている。日本哲学研究者は、日本人も外国人も複数言語環境に置かれ、各自、哲学し、また対話し、議論している。近代において日本の哲学は、「日本哲学」を生み出していった。その言語、つまり日本語は、近年、外国人が哲学するために学び、使う言語となっている。「日本哲学は、「翻訳し・翻訳される」、「受容し・受容される」という環境の中で営まれて」いるのだ(拙稿「日本哲学の展開と「軽蔑された翻訳」、2025年)。

予稿2 日本語での哲学への旅――往路そして復路(フォンガロ・エンリコ)

 イタリアで生まれ育った私にとって、哲学とは最初はギリシャ哲学、そしてドイツ哲学であった。したがって、翻訳が思考に与える多様で多産な影響との出会いは、私の場合、最初からあったわけであるが、古代ギリシャ語やドイツ語に関しては、少し努力すれば、これらの言語とイタリア語との言語的なズレはすぐに克服できると当然思っていた。つまり、質の良いイタリア語への翻訳を利用すれば、ハイデガーやプラトンをイタリア語で読んでも、その著作に表現されている思想に何の影響も与えないという考えは、私が学んだパドヴァ大学の哲学研究者の間では、ある意味で、これ以上疑問視されることのない一種の常識であった。今日から振り返って見ると、1990年代のイタリアは、インターネットもAI翻訳もなかった遠い昔のことである。そのため、哲学は事実上、ほぼ単一言語による実践とみなされていた。著者が誰であれ、哲学は「イタリア語で」行われ、それは特に問題とはならなかった。ψυχήを「anima」と、Geistを「spirito」などと訳すことは、当然のこととされていた。

 文部科学省の奨学金を得て日本に移住したことで、哲学に対する考え方が根底から変わった。日本で、日本の著者の研究や翻訳をしていくうちに、非インド・ヨーロッパ語族の言語で表現された思想、仮名と視覚的文字を組み合わせたハイブリッドな文字体系、そして翻訳を通じてヨーロッパ/西洋の思想と対話している現実に直面した。そこで、西洋哲学の用語を使用した日本語の哲学文献をイタリア語に翻訳し始めたところ、思考・存在・言語の関係について私が抱いていた確信は揺らぎ始め、思想、ひいては哲学に関連する翻訳行為の意味という問題が、私にとって中心的なものとなった。

 まず、翻訳がなければ、ギリシャ哲学は西ローマ帝国の滅亡を克服することはできなかったであろう。いずれにせよ、その発展は全く異なるものになっていたに違いない。ギリシャ語以外の言語、例えばラテン語、アラビア語、ヘブライ語にも広まっていくことができたという事実は、ギリシャで始まった言説が時代や文化の境界を越えて継続できることを意味している。

 今日、何世紀も経った後でも、世界中で哲学が実践されているのは、無数の翻訳者たちのたゆまぬ努力のおかげである。つまり、翻訳は偶発的な出来事ではなく、私たちが哲学と呼ぶものの存在そのものに本質的なものとして考えられるべきである。このため、翻訳が思考そのものにどのような影響を及ぼすのか疑問に思わざるを得ない。

 第二に、ヨーロッパで通常、翻訳をtra-durretrans-lateüber-setzenなどとして強調する傾向について、あまり説得力がないように感じ始めた。これらの用語(「翻訳」を表す用語は他にもあるが、ここには翻訳理論でよく使用される用語のみを挙げる)は、前置詞「trans」または「über」が、翻訳によって越えなければならない、異なる言語領域間の断絶や壁を前提とする空間的イメージを連想させる。つまり、翻訳者は、自分とは異なる言語の領域に足を踏み入れ、言語理論的な内容を把握し、それを自分の言語の領域に持ち帰る人物である。優れた翻訳とは、言語間の差異を最小限に抑えるか、あるいは完全に解消し、「外部」のコンテンツを、自分の言語・文化圏の「内部」で完全に理解できるようにするものと考えられている。しかし、本当にそうだろうか?中国語・日本語の「翻訳」という語には、「trans」という、乗り越えるべき壁や隔たりという意味が見られないことがすぐに分かる。では、哲学の文献を翻訳するときはどうなるのだろうか?おそらくそれは「通過」ではなく、要素間の「混合」といったものであり、内容や関わってる言語、翻訳者自身に「移転形成的な実践」をもたらすものと考えられる。翻訳は思考の行為に必要な変容の実践であるように私には思えた。

 最後に、もう一つの困難に直面した。それはいわば「逆翻訳」による均質化効果である。日本語のテキストをイタリア語に翻訳する中で、もともとヨーロッパに由来する用語を、どのようにヨーロッパに「戻す」かという問題である。これらの用語は日本語に翻訳される過程で創造的な変容を遂げており、それは現代日本哲学の独創性の一部となっている。しかし、これらの用語をイタリア語に翻訳する場合、通常の翻訳方法に従う必要があるため、日本語の用語の独創性をどのように維持するかという問題に直面する。例えば、カントの「Vernunft の翻訳である「理性」は、イタリア語では「ragione」と訳さなければならない。しかし、「Vernunft」、「ragione」、そして「理性」は、カント哲学を参照しなければ、あまり共通点がないように見える。「Vernunft」の場合、イタリア語の読者や学生は、「ragione」との違い、つまりvernehmenという動詞に由来すること、したがって「ragione」にはnehmenの意味がなく、むしろ「ratio」と関係があり、ドイツ語とは違うことについても学ぶ。しかし日本語の「理性」をイタリア語訳する場合はそのまま「ragione」と訳すしかない。なぜなら「理性」がカントの「Vernunft」の日本語訳であることがわかっているため、イタリア語訳を変えることができないからである。西田がカントについて書いた文章にある「理性」を、「理」の意味を明らかにしながら、文字通り翻訳しようと考える人はいないだろう。もしそうすれば、イタリア語でカントを翻訳する時に定訳となっている用語を使わず、別の用語を考える必要が生じる。現時点では、「日本語」の哲学が、イタリア語で当たり前に使われている哲学用語に疑問を投げかける力を持っているということを誰も考えていないように見える。用語を単に機械的に翻訳することは、翻訳という行為によって生み出される言語の豊かな差異を平準化し、消し去ることになり、それとともに、イタリア語での思想と日本語での思想が接触することで生じる、変革をもたらす対話の可能性も失われてしまう。したがって、翻訳者である私の場合には、思想の言語的な旅をヨーロッパから日本への片道旅行ではなく、往復旅行とするための翻訳戦略を考案しなければならない。そのためには、ヨーロッパの思想が他の思想に対して一種の「暗黙の支配」を及ぼしている、というシンプレガデスの海峡を乗り越える必要がある。そのようなことが実現するにはどれほどの時間がかかるのであろうか? あるいは、どれほどの翻訳が必要なのだろうか? AI翻訳は、この意味で助けとなるのだろうか、それとも障害となるのだろうか? AIが平坦化する時代における哲学の未来は、おそらくまさにこの点にかかっていると考えられる。

予稿3 日本語による哲学実践と言語的不正義(笠木雅史)

本ワークショップのテーマ「今、日本語で哲学するとはどういうことか」には、「今」、「日本語」、「哲学する」という多義的な語が含まれており、主語も省略されている。このため、このテーマについて論じるためには、これらの点について特定することが最初に必要となる。以下では、日本語を母語(native language)とする哲学研究者を主語とし、2026年現在を「今」、「哲学する」を哲学の研究とその成果の公表に関わる学術的な活動として想定する。しかし、最後に述べるように、「日本語」が何を意味するのかについては、より慎重な態度が必要となる。というのも(日本語が単一言語なのかという点を措くとしても)、学術言語と日常言語を同一言語内でも区別する必要があるからである。

20世紀後半に英米の科学的、経済的、政治的な支配力が強まった結果、グローバルな共通言語として英語が主に使用されるようになった。この過程は、英語の利便性が高まり、英語によるコミュニケーション・コストも下がるという帰結を生み出し、そしてこうした帰結ゆえに、英語の共通言語化はさらに推し進められることとなった(Van Parijs 2011)。しかし、英語がグローバルな支配的言語となったことは、人々が単一言語でのコミュニケーションを行い、連帯することが容易になったという利点を持つ一方で、英語を母語として用いる人々とそうでない人々の間に不平等や格差を生み出すこととなった。そうした不平等や格差は、「言語的不正義」と呼ばれる。

「言語的不正義」を正確にどのようなものとして理解するのかは、論者によって相違がある。代表的な論者である Van Parijs2011)は、言語的不正義の3つの理解を提示している。

利益とコストの不均衡:英語を共通語とする利益は、英語を母語とする者としない者の双方にあるにせよ、英語を学習し使用するためのコストは英語を母語としない者に一方的に高く、利益とコストが不均衡に分配されている。

機会の不平等:就業、昇進、メディア活用、コミュニケーションへの参加などの機会が英語話者には広く開かれている一方で、非英語話者には相対的に閉ざされる。

言語的アイデンティティの毀損:英語が支配的となることは、他言語が承認されなくなったり、その使用をアイデンティティとする言語共同体への尊厳が失われたりする傾向を生み出す。

言語的不正義はもともと、言語政策の問題として政治哲学で論じられることが多かったが、英語が学術言語としてもグローバルな共通語となりつつある現在、各学術分野でも言語的不正義の内実を調査する実証的研究と、言語的不正義の問題点やその対策を論じる規範的研究が始まった。英語の支配力がより強い理工系分野(STEM)だけでなく、近年は人文系分野でもそうした研究は存在する。この潮流に合わせ、哲学における言語的不正義についての研究も増加しつつある。

実証的研究の一つである Yen & Hung2019)は、2013年から2017年の英語の主要な一般哲学専門誌10誌に掲載された論文の著者のべ703名の母語を調査し、上位から英語(484名)、ドイツ語(46名)、オランダ語(25名)、イタリア語(24名)であったと報告している(他の言語は20名より少ない)。論理学の専門誌のみを調査すると、英語を母語とする著者の割合は半分以下となったことから、形式言語の使用が英語で哲学研究を公表する困難さを減少させるのではないかと、著者らは推測している。

Peters et al.(2025)は、17か国1,615名の哲学学生と研究者による質問紙への回答から、英語を母語としない研究者が直面する困難さやコストの高さを調査した。例えば、最新の論文を英語で読むのにかかる時間は、英語を母語としない者はそうである者よりも長く、刊行する論文の数も母語で書く場合に比べ減少する。また、この調査によれば、英語を母語としない者はそうである者よりも、英語でのイベントへの参加を控えたり、参加しても質問しない傾向が高く、さらに、英語で哲学を行う時間が長いほど、母語で哲学を行う能力を喪失する経験をしている。

これらの実証研究は、Van Parijs の述べる言語的不正義の3形態のうち、利益とコストの不均衡と機会の不平等に主に焦点を当てたものである。他方、規範的研究は言語的アイデンティティの毀損に焦点を合わせることが多い。例えば、Catala2022)は、英語が学術言語として支配的になることは、(英語を用いていても)他言語を母語とする者が述べる内容を理解する概念的資源が不足したり、その内容を表現したり論述したりする仕方が英語話者と異なるために過小評価されたりするという解釈的不正義を招くと論じる。これはそれ自体不正義であり問題だが、この結果さらに、英語を母語としない研究者は集合知・理解を形成する過程への参加の機会を奪われるという不正義も生じる。

学術内外のグローバライゼーション、研究評価の国際化の進展によって、日本語を母語とする哲学研究者も英語で研究を行い、その成果を公刊する必要性が近年高まっている。また、研究分野によっては国内で研究のための連携が困難であり、国外の研究共同体との連携を求める必要もより強くなりつつある。英語はすでに哲学でもグローバルな共通言語となっているため、このような日本国内の変化は、哲学を研究しその成果を公刊する言語として、英語を(必ずしも英語だけではないが)用いることを強いる構造的要因となっている。

この国内の傾向性が、日本語を母語とする哲学研究者に対する言語的不正義に関わる諸問題を生じさせる可能性は高い。しかし、どのような問題がどのような形で生じるのかについては言語共同体や個人ごとに異なるため、丁寧な実証的・規範的研究が必要となる。またさらに、哲学研究と言語の関係についてもメタ哲学的な反省が必要となる。本発表では、この観点から主に2つの主張を行う。第一に、哲学の学術言語としての日本語は日常的な日本語との連続性もあるが、日本語としての意味よりも、他言語との機能的な同一性を担保するための人工言語という側面も強い。第二に、言語的不正義を改善するためには、日本語も含めた多様な言語とその共同体について、より深い理解が求められる。

参考文献

Catala, A. (2022). “Academic migration, linguistic justice, and epistemic injustice.” Journal of Political Philosophy, 30(3): 324-346.

Peters, U. et al. (2025) “Epistemic challenges faced by non-native English speakers in philosophy: evidence from an international survey.” Review of Philosophy and Psychology, 16(4): 1197-1233.

Van Parijs, P. (2011). Linguistic Justice for Europe and for the World. Oxford University Press.

Yen, C. P., & Hung, T. W. (2019). “New data on the linguistic diversity of authorship in philosophy journals.” Erkenntnis, 84(4): 953-974.