第85回龍谷大学大会 学協会シンポジウム「フーコーと哲学」

2026.03.20

提題者

坂本尚志(京都薬科大学)、重田園江(明治大学)、大河内泰樹(京都大学)

司会者

田中祐理子(神戸大学)、渡名喜庸哲(立教大学)

趣意文

 2026年はフランスの哲学者ミシェル・フーコーの生誕100周年にあたる。ただし、フーコーを「哲学者」として紹介することは若干の戸惑いを誘うかもしれない。フーコーが「フランス現代思想」という潮流の中心人物の一人と見做されることは確かだとしても、フーコーは果たして「哲学者」と呼びうるのか。もとよりフーコー自身が、自らの仕事と「哲学」との関係についてはつねに留保を示し続けていたにもかかわらず、どうしてことさら「哲学」を主題とするのか。初期の「狂気」を主題とした精神病理学や心理学にも及ぶその研究がフランスの科学哲学(科学認識論)の流れに位置づけられると言いうるにしても、その後のフーコーの思想は、ちくま学芸文庫の『フーコー・コレクション』の各巻のタイトルが示すように、「狂気・理性」「文学・侵犯」「言説・表象」「権力・監禁」「性・真理」「生政治・統治」と、精神病理学から、文学・表象文化を経て、政治やセクシャリティにいたるまさに多様な主題に関わることになる。その意味では、「フーコーと哲学」という主題は、その思想の広がりを逆に狭めることになりかねない。

 しかし、フーコーの死後40年がすぎた現在、フーコーのテクストに関して大きな変動が見られる。コレージュ・ド・フランス講義の編集・公刊が一段落した後、それに以前の時代の講義・講演録が続々と公刊されるようになる。その特徴は、意外なことに、「哲学」に対峙するフーコーの姿である。そのなかでもっとも注目すべきは、『言葉と物』と同時期の66年に書かれた「哲学的言説」を主題とする未完草稿(2023年公刊)だろう。それに先立つ時期についても、ルードヴィヒ・ビンスヴァンガーや現存在分析についての50年代の草稿(2021年公刊)、後年の批判とは裏腹に現象学への関心を示す「現象学と心理学」についての53-54年の草稿(2021年公刊)、50年代の講義におけるデカルト、マルブランシュ、ライプニッツから出発して、ヘーゲル、マルクス、フォイエルバッハを経てディルタイに至るまでの「人間学的問い」を対象にする論考(2022年公刊)、60年代終わりから70年代初頭のニーチェを主題とする講義・講演録(2024年公刊)などがある。1949年にジャン・イポリットとの指導のもとで執筆したヘーゲルを主題とする学位論文「ヘーゲルの『精神現象学』における歴史的な超越論的なものの構成」の公刊(2024年)も特筆すべきだろう。カントの人間学についての国家博士号論文副論文(2008年公刊)については、すでにその邦訳もありそれなりに知られているだろうが、それを含め、フーコーが「哲学」に対して向けていた関心の全貌を理解しうる状況が、すくなくとも資料的には用意されてきた。フーコーの/における「哲学」を論じる機会がようやく整ってきたわけだ。

 こうした状況を受け、本シンポジウムでは「フーコーと哲学」について多角的に考察するために、日仏哲学会および社会思想史学会の後援を受け、以下の3名の方に登壇いただき、提題をお願いしたい。坂本尚志氏はフランス・ボルドー第三大学にフーコーにおける歴史の問題に関する博士論文を提出した後、現代フランス哲学研究の動向を踏まえつつ日本におけるフーコー思想研究を先導している。重田園江氏は、政治思想史・社会思想史の領域において、フーコーについての研究というよりも、「統治」や「連帯」というテーマをめぐって、フーコーの思想に即したフーコー的な思想史研究を実践してきたと言える。大河内泰樹氏は、ヘーゲル研究を軸にしつつ、アクセル・ホネット、ジャン=リュック・ナンシー、ジュディス・バトラー、マルクス・ガブリエルといった現代思想にも通じている。これらの観点から、「フーコーと哲学」の関わりが、多様なかたちで浮き彫りになるだろう。

予稿1 哲学の解体?フーコーによる哲学的言説の考古学(坂本尚志)

 ミシェル・フーコーの思想は、その博士論文『狂気と非理性』以来、狂気、医学的まなざし、人間の形象、監獄、セクシュアリティなどの対象や実践の(偽りの)自然性を疑問に付そうとしてきた。

 制度的にもまぎれもなく哲学の教育を受けてきたフーコーは、自分を哲学者として認めていない。1978年の講演においてフーコーは、「自分自身は哲学者ではなく、せいぜい批判者である」と述べて、謙遜も込めつつではあるが、自身の試みを哲学とは別のものとして位置付けている。

 この発言は1970年代のものであるが、フーコーが哲学との間に取ろうとする距離は、少なくとも1960年代から存在していた。それを明確に示しているのが、2023年に刊行された草稿『哲学的言説』である。

 この草稿は、『言葉と物』と『知の考古学』という2冊の考古学的著作の間に位置づけられる。このテクストが扱うのは、哲学の歴史である。とはいえ、それは単なる哲学史ではなく、「哲学的言説」の歴史である。哲学を「言説の操作」としてとらえること、それは他の形式の言説との関係において哲学を理解することであり、その歴史的な形成規則や限界を明るみに出すことである。

 フーコーは哲学の歴史あるいは哲学の考古学を、ニーチェ的な「診断」から出発しつつ、「哲学の可能性の諸条件、とりわけ可能性の歴史的諸条件の分析」(172)を行おうとしている。つまり、この草稿では、哲学という知の領域の統一性と連続性を分解することが問題とされている。

 1.診断—フーコーにとっての哲学

 『哲学的言説』は「哲学の責務とは診断することである」という哲学の簡潔な定義から始まる。診断という活動が哲学の領域へと組み込まれたのは、少なくともニーチェ以来のことであるとフーコーは言う。彼が同じく指摘するのは、言説の(科学的、文学的、日常的、宗教的という)他の諸形式に対する哲学的言説の特殊性である。哲学的言説について彼が問うのは、「いま」の特権である。この特権に基づき、哲学的主体は真理を述べる。

 デカルト以来の哲学的言説は、現在の分析であり、この分析は二つの主要な形式をとりうる。その二つは四つの責務(正当化、解釈、批判、注釈)をめぐって互いに対立している。それぞれの責務は二つの理論に分離され、それぞれの理論は互いに対立する。

 第一の分析の形態は解明、起源、仮象、網羅的知識の諸理論から構成され、第二の形態は表出、感覚、無意識、瞑想の諸理論から成る。第一の形態にはデカルト、スピノザ、ライプニッツ、マルブランシュが、そして第二の形態にはロック、コンディヤック、ヒューム、バークリが属している。

 哲学的言説の変容の全体で問題となっているのは、形而上学とその諸対象(魂、神、世界)を破壊することである。しかし、フーコーによれば、カント以降の哲学的言説は別の地位を獲得した。その地位を彼は「人間学的円環」(136)と呼ぶ。彼はカント以降の哲学の変容を、『言葉と物』における彼の議論と並行的な方法で記述している。人間の経験的–超越論的問いを明確に受け継ぎつつ、『哲学的言説』は人間諸科学の考古学を二重化する。

 カントが創始した哲学的領域は、フィヒテと現象学によってその極致に達することによって、19世紀に二重の危機に遭遇したとフーコーは言う。一方でそれは、哲学と科学の決定的な分割に由来している。他方でそれは、哲学のある種の消滅を意味している。後者の危機はより重要であり、これ以降哲学が向き合うのは現在ではなく、「それ自体の不在」(177)である。

 フーコーはこの変容の明白な表れをニーチェに見出している。ニーチェによって哲学は粉々になり、「他の諸言説が語っている場にひそかに滑り込みつつ、それらの空間と形式の中で、弁じ立てる(179)」。

 この断片化によって、哲学的言説の機能の伝統的諸様相が不可能となる。しかもこの哲学的言説の変容は、ヨーロッパの思想のより一般的な変容の一部をなしている。言語に対する関心、言語から芸術的領域にまで広がる関心によって、この変容は特徴づけられる。このようにフーコーは近代にいたる哲学的言説の歴史をたどる。

2.テクストの生成、考古学の生成

 『言葉と物』との関係では、『哲学的言説』は1966年の著作の議論を哲学の考古学によって補完している。『知の考古学』に対しては、それは考古学的方法をいまだ漠然とした形ではあるものの提示している。『哲学的言説』においてフーコーは哲学の歴史に、より正確には哲学的言説の歴史に着手しているものの、『知の考古学』においては、彼は考古学的方法を「諸観念の歴史」に対立させている。この「諸観念の歴史」が記述するのは、「非哲学から哲学への、非科学性から科学性への、非文学から作品それ自体への移行」(L’archéologie du savoir, 180-181)である。ここでの考古学の対象は哲学あるいは哲学的言説ではなく、言説編成一般である。哲学的言説は、『哲学的言説』において与えられていた重要性にもかかわらず、『知の考古学』では言説編成を構成する一要素としての位置しか与えられなかった。

3.フーコーは哲学者か? 

 フーコー自身は、その知的歩みにおいて、哲学あるいは哲学的言説から脱却しようと絶えず試みていたように思われる。『狂気の歴史』以降のフーコーにとっては、哲学からの脱却、あるいは一定の距離を取ることが一貫した姿勢になっているように思われる。いわば彼は「非哲学」の中で思考することを目指していた。

 『言葉と物』において彼が行ったような哲学の歴史的分析は、哲学的言説をあるエピステーメーの内部に置くことによって歴史化しようとする試みである。人間諸科学の考古学は、経験的―超越論的人間と双子の形象である哲学的思考の一形式にも終止符を打とうとしている。

 『哲学的言説』は、哲学の歴史化という中心的問題を共有しつつも、そのタイトルが示すように、『言葉と物』でフーコーが詳細に分析した知の構造からは幾分独立した哲学的言説に焦点を当てている。フーコーはこのような言説が可能になる歴史的諸条件を明るみに出しつつ、哲学を批判する。

 この独特のテクストを位置づけるためには、フーコーにおける哲学の地位に関する問いを提起しなければならないだろう。決して哲学者であることなく、あるいは哲学者と自認することなく、いかにして哲学することができるのだろうか。フーコーは、パレーシアあるいは真理語りの歴史に取りかかる80年代まで、こうした回避の身振りを繰り返している。

 『哲学的言説』において問われているのは、哲学の限界である。哲学は普遍的な真理の探究としてではなく、歴史的に規定された言説へと、あるいは彼が『知の考古学』で「言説編成」と呼ぶことになるものへと転位された上で考察されているのである。

【参考文献】

Michel Foucault, Le discours philosophique, Paris, Gallimard-Le Seuil, 2023.

—— « Qu’est-ce que la critique ? », in Qu’est-ce que la critique ? suivi de La culture de soi, édition établie par Henri-Paul Fruchaud et Daniele Lorenzini, Paris, Vrin, 2015, p. 31-80.〔「批判とは何か―批判と啓蒙」『私は花火師です』中山元訳、筑摩書房、2008年、69-140頁〕

—— L’archéologie du savoir, Paris, Gallimard, 1969.〔『知の考古学』慎改康之訳、河出書房新社、2012年〕

予稿2 フーコーにおけるポリス概念の変遷(重田園江)

 フーコーがアンシャン・レジーム期の「ポリス」について注目したのは、かなり初期の著作からである。たとえば『狂気の歴史』の中ですでに、ドラマール『ポリス概論』を取り上げている。ただしここでは、ポリスと貧民の労働や「閉じ込め」の実践との関連が問われていた(『監獄の誕生』の主題の先取り)。フーコーによってポリスが再度注目されるのは、コレージュ・ド・フランスにおける2年度目(1971-1972年)の講義である。「刑罰の理論と制度」と題するその講義では、17世紀の民衆反乱とそれを抑圧しようとする「国家」の攻防が描かれる。そこには当時フランスで盛んだった民衆史・社会史研究の影響が色濃く見られる。そのなかで彼の関心が最終的に向かうのは、(これ以降フーコーの研究を特徴づけることになる)反乱を通じて抑圧する側がどのような「装置」を組み立てるかであった。

 この年の講義では、とりわけ「ヌ・ピエ(裸足)の反乱」の考察を通じて、近代国家における人間管理の装置の形成プロセスが検証されていく。この反乱は、ノルマンディ(とりわけCotentin半島)地域において、慣習的塩税(privilège de quart-bouillons)を廃止し、他の地域同様にする(gabelle du selを課す)ことを王によって宣告された住民たちが、1639年に起こしたものである。そしてこの反乱は、鎮圧されるまで10年を要した。まだ十分な基盤を持たない国家による騒擾統制の試み、そして地元の有力者や貴族たちの立ち回りがスリリングに描かれる。フーコーは国家がノルマンディの一地域を「平定」していくことそのものには、あまり興味を持っていない。むしろ燃え広がる民衆反乱に対処する過程で、王とその権力装置が地元の貴族や有力者、たとえば高等法院に代表される地域勢力をうまく利用しながらもそれらが増長しないよう牽制し、ローカルな司法―統制システムを、自前の司法-警察-軍事装置へと置き換えようとする動きを描写する。反乱のプロセスで、地元の有力者たちはしばしば民衆の行動を見逃し、大目に見、あるいは支援するような動きさえ見せる(これが騒乱を大きくし長引かせた大きな原因である)。

 要するにこの時点で、勢力を拡大しようとする王権と、本来的にそれに対立する貴族や地域の有力者たち、そして民衆という三つの主な権力主体が、互いに相手の出方を見ながら闘争を繰り広げていたことになる。ここで、民衆による騒乱が大きくなる要因として、しばしば後二者が手を組むという、フランス革命までつづく構図が示される。

 こうした反乱の鎮圧という文脈において、ポリスは警察や軍隊や取締の装置とほぼ同一視されることになる。この年の講義は、この時点でフーコー自身によって司法の変遷と王権による司法権力の掌握のプロセス(「調査」モデルの形成と展開)として理解されていた。だが後の彼のテーマとの関係で捉え返すなら、それは警察・軍事装置の変容を近代国家形成の中心的要素として取り上げたものとして見ることができる。

 72-73年の講義「処罰社会」と73-74年の講義「精神医学の権力」1974-75年「異常者たち」はひとまとまりの内容を持ち、処罰のあり方(身体刑から監獄へ)の変容史、「犯罪者」という形象の出現、規律権力の登場と精神医学の誕生、「異常者」という形象の成り立ちと性的欲望の焦点化について扱っている。これらは『監獄の誕生』(1975)と『知への意志』(1976)に結実する。とくに「処罰社会」では、封印状について注目しており、そのなかでポリスにも多少の言及がある。

 『監獄の誕生』におけるポリスへの言及は、警察の監視装置という文脈のもので、これは「刑罰の理論と制度」のときとあまり変わらない。

 1975-76年の講義「社会は防衛しなければならない」は、歴史を語る際の「戦争モデル」の言説の出現を取り上げており、ポリスとはあまり関係がない。

 1977年、フーコーはサバティカルを取って講義はなかったが、この年のはじめに「汚辱に塗れた人々の生」(来るべきアルシーヴ集成の序文として1977年にLes Cahiers du chemin, No.29, 15 janvier 1977, pp.12-29に発表されたもの)が出版された。ここでポリスは封印状の実践において庶民と王室をつなぐ監視装置として取り上げられるが、厄介者を監禁する抑圧の機構というその位置づけは変わっていない。

 そして1978年、「安全・領土・人口」でポリスが再び扱われる。このときフーコーは、ポリスをもっと総体的に、つまり市民生活の多様な側面を管理・運営し、人々に豊かさと幸福をもたらす(という建前の)装置として捉えている。ここでフーコーは、近代国家のイメージを、民衆や地方権力を抑圧する強制装置としてというより、より柔軟で「生産的」なものとして描こうとしている。これは、権力の発動を「対決」としてより、もっと広い意味での相互行為として捉え、それがもたらす帰結を幅広くつかみ出そうとする彼の努力として理解することができる。ここでポリスは警察や治安というネガティブな抑圧機構としてのみならず、経済行為をはじめとする社会生活全般に関わる近代的な国家の行政装置として取り上げ直される。これは、1978年にはじまる「統治」概念への注目と関係しており、また70年代後半に試行錯誤を伴ってなされた権力イメージの捉え返しの一部である。

 以上のように、フーコーにおけるポリス概念の意味内容の微妙であるが決定的ともいえる変化に注目することで、国家、権力、近代政治を捉えようとする彼の思考の苦闘のあとを明らかにし、そこで示された近代国家像の現代的な意義を改めて検討することが、この報告のテーマである。

予稿3 フーコーの「下賤さ/Niederträchtigkeit」について(大河内泰樹)

« Pour être mensonge, le mensonge implique une certaine vérité, au moins sa vérité d’être comme mensonge. » M. Foucault, La constitution d’un transcendantal historique dans la Phénoménologique de Hegel, p. 187

 哲学のみならず人文社会科学において、ミシェル・フーコーは、最も影響力を持った(あるいは依然として持っている)20世紀の巨人である。私自身、ずっとフーコーのファンであったし、専門家でないにしても比較的長い間フーコーのテキストに、多くの場合は翻訳で、しかし時にはやはり原文で取り組んできた。しかし、最近ある種の疑念がフーコーの叙述スタイルに関して私の心に兆すようになってきた。本報告ではこの私の疑念をヘーゲルのことばを用いて、フーコーの「下賤さ/Niederträchtigkeit」と表現してみたい。

 ヘーゲルは『精神現象学』の精神章B.「自分から疎外された精神」において、人倫的実体の崩壊を経て、近世社会において疎外された自己意識が、精神としての社会(それは国権と財富(=市場社会)に分裂している)にたいしてとる態度に従って、一方の自己意識をedelmütig(高貴/高潔な)意識、他方の自己意識をniederträchtig(下賤な)意識と呼んだ。

 フーコーについては一般的に、しばしばその高潔さ、場合によっては神聖さ(「聖フーコー」(ハルプリン))のイメージが付きまとっているように思われる。そのフーコーを指して、「下賤」とはなんだ、とフーコディアンならず、フーコーの影響を多かれ少なかれ受けた研究者からはお叱りを受けるかもしれない。

 しかし、私はフーコーは下賤である、niederträchtigであるといいたい。あるいは少なくとも私たちは、フーコーの下賤さという視点からフーコーを読み直すべきだと考えている。

 拙著『国家とは何か ヘーゲル「法哲学」入門』(2024年)では、ヘーゲルの『法哲学』とフーコーの統治性論/生権力論の接続を試みた。そのきっかけとなったのはコロナ禍である。私はそれ以前から、ヘーゲルが「市民社会章」で導入しているポリツァイの概念を、フーコーが統治性論の中で取り上げていることに着目してきたが、コロナ禍で私達が直面した統治のありかたは、まさにフーコーが18世紀のプロイセンにその成立を見ていた医療化の延長線上にある統治形態であり、ヘーゲルはまさにそうした歴史的背景を持つポリツァイ概念をみずからの『法の哲学』に組み込んだのである。そのことを私は、ヘーゲルが「法哲学講義」のなかで、伝染病の予防や、当時議論になっていた種痘の国家による強制の可否について触れていることを傍証として描き出したつもりである。

 以上のように、ヘーゲルとフーコーに接点があるとして、両者が別れるのはその先である。ヘーゲルは、ポリツァイによる統治を通じて、私達の生活の隅々に権力が入り込んでくることに警鐘を鳴らしている。多くのフーコー読者は、おお、ヘーゲルもフーコーに通じることを言っているのか、と感心するかもしれない。しかしヘーゲルはそこからさらに、これを補完するものとして、コルポラツィオンという自治組織を導入し、あるべき国家を有機的な国家として描き出す。それは多くのフーコーディアンが拒否するところだろう。しかし、フーコーは何らかのオルタナティヴをどこかで提示しているだろうか。あるいはそもそも、本当にフーコーは、そうした権力のあり方に、警鐘を鳴らしている、あるいはそれを批判しているだろうか?彼はただそうした権力のあり方を記述しているだけではないだろうか?

 ヘーゲルは、ポリツァイにおける統治性の出現に対して、これをいかに飼い慣らすかを考え、国家という枠にはめることで馴致することを構想した。ヘーゲルがこうして、あるべき国家を論じたのに対して(その内容の是非はここでは問題ではない)、フーコーはあるべき国家、あるべき統治について(あるいはあるべき無政府状態についてでもいいのだが)明示的に論じることはない。

 このことは、フーコーが一体歴史家なのか、哲学者なのかという問題に関わる。ところがフーコーはあるときには自分を哲学者と呼び、あるときに歴史家だという。不思議なことに多くのフーコー研究者にとっては、このことは問題にはならないないらしい。しかし、私からみれば、これは一貫性のない不誠実な態度である。つまり「下賤」である(フーコーが場所によって全く逆のことをいうのはこの件についてだけではない)。フーコーは、高潔どころではない。むしろ、フーコーは、「哲学者」を前にして言を左右にひるがえし、翻弄する「ラモーの甥」なのだ。

 ロバート・ブランダムはその精神現象学論『信頼の精神』で、ヘーゲルが下賤な自己意識と呼んだものと「系譜学」という方法を結び付けている。系譜学的な態度は、ある人のある発言を、その発言の背後にある「事実」に基づける。いわく、そのひとは誰それの影響を受けている、あるいはそのひと発言の背景にはその人がおかれたこれこれこういう経済的位置がある、あるいはそのひとはその日の朝パートナーとケンカをして機嫌が悪かったetc. それはたとえ、その時代の言説の枠組み(エピステーメー)がこれこれこうであったから、といっても同じことである。系譜学は、その人の発言をそのひとの規範的な態度の表明としてではなく、事実によって引きおこされたものであると考えるかぎりにおいて下賤なのだ。そのかぎりでフーコーの「系譜学」も(この点では「考古学」であってもかわらない)下賤なのである。

 フーコーに規範的態度を見出せないのは、むしろ私達の下賤さを示しているのかもしれない。あるいは、なにより、ヘーゲルはむしろ下賤な意識にこそ歴史を前に進める力があると考えたのだから、フーコーの下賤さにこそ意味があるのかも知れない。しかし、少なくとも私は何かを外挿することなしには、そこに事実に基づく相対化以上のものを見出すことができない。

 コロナ禍で、アガンベンが各国の感染症対策を批判し、コロナの健康への影響を矮小化するような発言をしていたこと(何人かのフーコー、アガンベン研究者が、これについて国内でも発言しているが、私は一度もそれに納得いったことがない)、あるいは、彼の弟子の中から右派に転向し、フーコーを用いて気候変動懐疑論を擁護するEwaldのような人物が生まれたこと、このことをフーコー研究者が真剣に受け止めている様子はない。本当にそのことについてフーコーに責任はないだろうか。国内外を問わずフーコーは左派に親和的であると思われている。しかしそれは本当にそうなのだろうか?彼らはフーコー自身の政治的コミットメント以外に、理論的にそのことを論証することができるだろうか?(しかしそもそも彼のイラン革命へのコミットメントは本当に正しかっただろうか。少なくとも当時からフーコーのスタンスはフェミニズムから批判されていたのであり、その正しさは少なくとも自明ではない)。あるいは彼らは(しばしばヘーゲリアンがヘーゲルについてするように)自分の政治スタンスを自分の好きなフーコーに投影しているにすぎないのではないだろうか?